歴史カフェ阿蘇!猫は根子岳に登らない!

日出処天子が国書をだした隋の史書に「阿蘇山あり」と書かれています。え?なんで阿蘇?って思いませんか?

法隆寺が見て来た歴史は何だったのか


法隆寺を歩くと、ふっと土塀に視線が行きます。


そして、池田克己の「法隆寺土塀」を思い出してしまいます。
今は、詩集が傍にないのではっきりとは言えませんが、そんな題詞だったと思います。


中学のころ、担任だった森崎浩一郎先生が読んでくれた詩でした。
子どもでしたから、法隆寺土塀に心を動かした詩人とそれに共感した教師がいると、ぼんやり受け止めたのでした。
それから何度も法隆寺に行きましたが、その度にしみじみと土塀を見るようになりました。
第二次大戦ですべてを失った日本人が、風雨にさらされて崩れかけた、それでも凛として歴史に耐えて来た法隆寺土塀を見て、生きていること、生き残ったことの意味と重みを感じて号泣したであろうと、思うようになったのです。


法隆寺の歴史も平たんではありませんでした。


テレビは幕末大好きのようですが、九州に住んでいる私も「薩長土肥は何をしたのか?」と、やはり考えます。明治維新を乗り越えることは、ほとんどの日本人にとっての試練でした。


法隆寺ですら明治維新を乗り切ることは、難しかったのです。
明治の廃仏毀釈で多くの仏像が焼かれ捨てられ売り飛ばされました。法隆寺も立ち行かなくなり、今では国宝となっている仏像も売りに出たそうです。皇室に買い上げてもらったものは残っているのです。


日本中の寺が困窮し、修験道の道は荒れて消えていきましたし、神社ですらどんどん合祀され、祭神の入れ替えがありました。「明治とは人々が泣きながら坂道を転げて行った時代だ」と、夏目漱石でしたっけ、書いていました。
ホントに、泣きながら転げたんです、日本人は。


そうして、今日に至って、何処へ行こうかと迷っている。
わたしたちは、残された歴史が何だったのか考えることはできます。
日本人は自分たちの歴史をあなた任せにせずに、自分で考えることができるようになったのです。ほんの数十年前に、そうなったのです。


日本の歴史の中でその名を残す聖徳太子について、九州に住んでいる私たちが考えることができる、すごくスリリングで楽しく意味のあることだと思います。

日本中の古い村の出入り口には、お地蔵さんがあります。
日々の平安と幸せを守った、守ろうとした切なる願いがこめられていたのでしょう。
では、また。