歴史カフェ阿蘇!猫は根子岳に登らない!

日出処天子が国書をだした隋の史書に「阿蘇山あり」と書かれています。え?なんで阿蘇?って思いませんか?

聖徳太子の宮は何処にあったのでしょうか?

 

聖徳太子は何処にいたのでしょうか? その宮殿は俀国の何処にあったのでしょう。
まず、その俀国は何処にあったのでしょう。隋書には、
百済・新羅の東南、水陸三千里に在り。
魏の時、中国に訳通す。三十国あり、皆、自ら王と称す。


三千里で俀国ですか。では九州も俀国ですね。魏の時=卑弥呼の時代 は、言葉が通じた国が30国で、何処にも王が居たのですね。と云うことは、倭人伝に書かれた九州の30国に王が居て、通訳が居たというのですね。


夷人は理数を知らず。ただ計るに日を以てす。其の国境は、東西五ヵ月の行、南北三ヵ月の行にして、おのおの海に至る。その地勢、東は高く西はひくし、邪摩堆に都す。即ち『魏志』に謂う所の邪馬台なる者なり。


魏志にある倭人の国、その後を引き継いだ俀国は、東西に長いとしています。更に楽浪郡や帯方郡から「万二千里にして、会稽(かいけい)の東にあり、儋耳(たんじ)と相近し」と言うのです。地理的にも九州になります。


次に、漢の光武帝の時の遣使、卑弥呼の遣使のことが書かれています。どちらも「漢倭奴国王」と「親魏倭王」の印綬を受けた国ですね。両者は倭人の代表国だったということです。『隋書』は過去の王朝の史書を引き継いで、過去の歴史家たちが書き残したことをそのまま受け取って疑ってはいません。


そして、いよいよ、隋の開皇(かいこう)二十年の記事になります。
倭王の姓は阿毎(あめ)、字は多利思比(北)孤、号して阿輩鶏弥(あはきみ)というもの、使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)らしむ。


問題が続出しました。
困りましたね。アメタリシヒコ(アメノタリシホコ)は、王(最高権力者)なのです。


決して、皇太子ではありません。


然も、まだ里程を使わずに日数で距離を測っています。国は東が高く西は低いといっていますから、九州から近畿まで治めているのでしょうか。


この人が聖徳太子なら、宮殿は斑鳩ですね。


法隆寺の東院伽藍の辺りに宮があったらしいのです。
宮殿が遠すぎたから、隋の使者に会わなかったのでしょうか。
隋書にも日本書紀にも、聖徳太子が隋の使者に会ったという記述はありません。


どうしたのですかねえ。推古天皇にも合わなかったのでしょうか?
然し、阿毎多利思北孤に隋の使者(裴世清)はあったのです。


日本書紀はどう考えて、この記事の重要な部分を書かなかったのでしょうか。


「聖徳太子はいなかった説」が生まれるのも仕方ないです…かね。
でも、裴世清は隋の皇帝の命を受けて来朝しています。タリシホコは実在なのです。


推古天皇じゃなくて、聖徳太子が極位に着いていたのでしょうか。推古天皇こそが後世に造られた女帝なのでしょうか。


スタートからややこしい話になりましたね。