アメタリシホコの国の仕組みに伊尼翼(いなき)がある
福岡空港に行くとき、稲城という交差点を通ります。
この地名を見るたびに、隋書の「伊尼翼=いなき」を思い出します。
これってアレのことじゃない? といつも思うので書いてみます。隋書には、
『軍尼(くに)一百二十人有り。なお中国の牧宰(ぼくさい)のごとし。八十戸ごとに
一伊尼翼(いなき)を置く。今の里長の如きなり。十の伊尼翼は一つの軍尼の属す』
と書かれているのです。
百二十人の軍尼がいるが、これは中国の地方長官のようなものである。八十戸ごとに一つの伊尼翼が置かれている。それは村長のようなもので、十人の伊尼翼が一人の軍尼に属している。
軍尼を「くに」と読んで、国造=くにのみやつこ と理解されています。
伊尼翼=いなき であれば、稲置=いねおき=いなき と音韻が変化して、稲置・稲城
牧宰⇒隋の地方長官のこと
里長⇒隋の村長のような役目
上のように理解されているのですが、書紀には稲城(いなぎ)と言う役職はありませんが、でも、「稲城」は書紀にも出てきます。
ちょっと気になりますから、読んでみましょう。
まず、垂仁(すいにん)天皇五年です。
「垂仁紀」五年では『たちまちに稲を積み城(き)に作る。その堅きこと破るべくもあらず。これを稲城という』とあり、稲城とは稲を積んだ堡塁(とりで)のようなものになっています。
次は、雄略(ゆうりゃく)天皇十四年です。
「雄略紀」十四年四月状には、根使主(ねのおみ)が皇后の兄から押木珠蘰(おしきのたまかずら)を奪っていたことが判明したので『根使主は逃げ隠れて日根(ひね)まで行き稲城を造って応戦した』とあるので、ここでも稲城は砦(とりで)のようです。
さらに、崇峻(すしゅん)天皇即位前期 です。
「崇峻天皇即位前期」にも、『物部大連(もののべのおおむらじ)は自ら一族と奴軍(やつこいくさ)とを率いて、稲城を築いて戦った』とあります。
行政上の「稲置(いなき)」という施設と、堅牢な城という稲城を混同したのかも知れませんが、稲城は土塁(どるい)を築いた砦(とりで)の意味で使われていますね。
日本書紀は、隋書の『軍尼・伊尼翼』に少しも触れていないのです。
日本書紀や風土記(ふどき)に出てくる地方の行政区は県(あがた)で、県主(あがたぬし)が長官です。
県(あがた)と稲城(いなき)は別の行政組織のようです。
いずれにしろ、県も稲城もよくわかっていないので定説はありません。
隋書によれば、アメタリシホコが使者を遣わしたのは開皇二十年です。
西暦では600年に当たります。この時、クニやイナキという組織があったのです。
中国の歴史書はわざわざ嘘を書いたりしていません。
他所の国ですから、飾ることも無くそのまんま書いているはずです。
そして、隋書には県(あがた)や県主のことは書かれていません。
やはり、アメタリシホコと聖徳太子は別人なのですね。
しかも、軍尼や伊尼翼は、アメノタリシホコのおひざ元にいたのです。
80戸 ×10伊尼翼 ×120軍尼=96000戸
俀国には96000戸あったのでしょうか。
歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
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宜しくお願いします。
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